良いゲームは本当に売れるのか?
良いゲームを作れば必ず売れる
ゲーム業界に於いて、昔から言われ続け、今も何処かで誰かが言っているであろうこの論法は、既に遙か昔の概念であり、現在では通用しない年寄りの繰り言と言って支障はないでしょう。
ただ、全面的に否定する事もできないが故に、今でも言われ続けているという側面もあります。
そのため、今では、このような置き換えが最も的確だと言えましょう。
良いゲームを作れば必ず受ける
では、何故に「売れる」ではなく、「受ける」なのかの解説を行います。
まず、長年この妙な論法がまかり通っていたのは、この「良いゲーム」という概念がこの論法を用いる人それぞれによって、別々の意味を持っていた事が原因であったと言えます。
もっとも、誰にとっても「良いゲーム」とは「面白いゲーム」の事でしょう。それなのに、話がややこしくなる原因は、皆が同じ価値観で「面白い」と感じている訳ではない事にあります。
つまり、「良いゲーム」とは、その場その時の話し手にとって、最も都合の良いゲームの事を指していたのです。これでは、論法自体の意味も変わってしまいます。
その事を考えると、まず行うべきなのは、「良いゲーム」の定義づける事になります。ならば、この論法に最も適合した「良いゲーム」とは、「多くのユーザーに面白いと感じさせるゲーム」を指す事になります。この定義を用いると、「売れる」論法の落とし穴が見えてきます。
「良いゲーム」が定義通り、多数のユーザーに受け入れられるものであれば、問題はありません。
ですが、「良いゲーム」と言われていた「そのゲーム」を面白いと感じるユーザーが少数の場合、確かに、(話し手を含む)それらのユーザーには面白いと感じられるのでしょうが、それ以外のユーザーにとっては、そうではない可能性があり、且つ、それ(面白いと思わない事)は正当である、という事です。
つまり、ユーザーが限定されているゲームは、如何に作り込んであろうと、その対象とするユーザー以外は面白い(=良い)と感じられない(or感じられにくい)ものになります。そのため、商業的にも規模が縮小します。故に(ゲームというジャンル全体から見て)売れないのも当然です。
「良いゲーム」と言われたゲームに売れないものが出る事は、このためです。
ですが、これは次点の問題に過ぎません。
「良いゲームを作れば必ず売れる」という論法の最大の問題点は、「良いゲーム」という作品性の価値観を「売れる/売れない」という商業的な問題に持ち込んだ事にあるのです。「作品性」という出来の高低を論議の題材にした場合、評価として対応するのは「売れる」という商業的な概念ではなく、「受ける」という作品性からの概念で評価するべきなのです。
即ち、商業から離れた作品性のみで考えた場合、その結果も、同じように商業から離れた作品性に対する結果(「受ける/受けない」という評価)のみとなるべきなのです。
これが、「良いゲームを作れば必ず受ける」が的確だと言った理由です。
勿論、「良いゲーム」には、高い商品価値が付きます。しかし、商業という側面で考えた場合、如何に商品価値が高かろうと、その価値の高さを宣伝して皆に認識させたり、様々な手法で、ユーザーに対してアピール(好感度の上昇)を行い、彼らが商品を購入するように仕向ける努力をしなければ、その努力をした時と比較して、売り上げが落ちるのは当然の事なのです。
つまり、宣伝・営業という、「売るための努力」という概念を無視し、「良いゲーム」という商品単体のみで「売れる」という結果を求めたために、このようなおかしな論理が展開されてしまったのです。
これでも、なら、良いゲームを見つけ出す努力をユーザー自身もするべきだ!
そうでないと(営業・宣伝力に劣る)良心的な中小メーカーが潰れてしまい、良いゲームが出なくなる! という一見もっともらしい事を言う方々がおられます。
それでは、題材を変えて、その破綻具合を例で挙げてみましょう。
例1:「(あるマイナーな)スポーツは素晴らしいから、お前達もやれ! 道具も買え! 誰かがやらないと、それらのスポーツが廃れてしまうのだ!」
あるスポーツの愛好者から、上記のように言われた場合、自分自身がそのスポーツが好きなら、問題はないでしょう。しかし、そうでない人間は「嫌だ。そんなモノに使う金と時間と体力があるなら他の(自分の好きな)事に使いてぇ」と言うのが普通の反応であり、当然でしょう。
つまり、ユーザー自身が自分の趣味嗜好から動くならば問題ありませんが、そうでない他人に対して特定の行為や価値観を強要するのは倫理的にダウトです。
上記の例で納得できないならば、これは如何でしょうか?
例2:「この教えは素晴らしい! お前達も入信せよ! 誰かが入信せねば、教団は滅び去り、世界は闇に包まれてしまうぞよ!」
これでも、まだ同じ事が言えますか? 言ってる事は「全く」同じですよ。
さて、本当にそのゲームが面白く、売れて然るべきならば、人の口に戸が立てられている訳でなし、何らかの手段によって情報は伝達され、必ずその評価は伝わるはずです。今、そういうゲームが存在しないのは、別に宣伝や広告力に勝る大企業のゲームに押されて、良心的な中小メーカーのゲームが目立たないのではなく、単にそこまで高評価を受けるような面白いゲームが無いだけなのです。
スト2やときメモのブレイクを見れば、それは自明です。両者とも、大々的な宣伝など無かったものの、それぞれ格ゲー、ギャルゲーという一大ジャンルとブームを築いた事は、これをご覧の貴方なら、よく御存知だと思います。
だから、貴方の好きなジャンルなりゲームなりが、「出ない、売れない、人気が無い」の三重苦状態なのは、別に大企業の陰謀(この表現がピッタリ合うな)ではなく、単につまらない(or一般受けしない)だけです。
それを「何かの」せいにして、辛い現実から目を背けようというのは、あまり格好良いとは思えませんね。
ただ、自分が面白いと思うものを他の人にも面白いと思って欲しいという心情自体は自然だと思うのですよ。
「自分一人で抱え込んでろ!」なんて言いません。問題は、そのための手段が他への攻撃になったり、変な持ち上げ方をする事になってしまう事なのです。行動に問題があったら、他人は相手の心情まで察する義務はありませんから、大抵の場合、その行動だけで判断される事になり、結果、伝えたい要点が全く伝わらず、悪印象だけを与える事になります。これはいただけません。
なら、どうするか。方法は一つです。「自分が好むものを他者が受け入れやすい形に加工して提供する」のです。
最初の印象が良ければ、そのもの全体に対する好感度も上がりますし、結果として他者に自分の価値観を共有させる事が可能となります。これは宣伝の基本であり、当然の事です。
逆に言えば、これをしていない(orできない)のに、結果だけは良いものを求めるのは、筋違いです。
もっと言えば、自分の努力不足を棚に上げて、他者が理解してくれない事に文句を言うのは猿以下であり、ンな奴ァ勝手に野垂れ死ねってとこでしょうか。同情の余地無しですな。
極論になりますが、右翼左翼問わず、ゲームマニアってのはどォしてこォ宣伝が下手なんでしょうか?
マニアの中でも特に下手な連中は、我を張り、決して譲らず、押し付けがましくて、しかも無礼というどうしようもない駄目駄目さ加減であります。これで好印象を持たれる方が変ですな。
この例は勿論、メーカーにも適応できます。個人的には、クソゲーである程、この例が満たされている事が多いと思うのですが、如何でしょう?
いや別に特定のどれとか、特定の誰かとは言いませんがね!