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日本のゲーム・アメリカのゲーム

 Written By ABC

 さて、この国・日本で斬新なゲームを出せという言葉が使われなくなってどのぐらい経つでしょうか?

 おそらく3年、ちょうど次世代機戦争が起こった頃からのはずです。ではなぜ言われなくなったのか?
 答えは明白、斬新なゲームが出過ぎるほど出てしまったからに他なりません。

 80年代末期から90年代初頭にかけて盛んに言われた斬新なゲームを出せという、旧時代のゲームライターお得意の陳腐な常套句が滅んだのは大変喜ばしいことです。
 中には、日本人には斬新なゲームを作る能力がないなどという発言者の個人的な無能を一般論に置き換えるとんでもない言説まで平気でまかり通っていました。これは、自分が数学の成績が悪いのを例に、日本人は数学能力が低いと放言するようなものです。

 今の日本ゲーム業界は、生物史にたとえるなら大恐竜時代です。その中心地は続々と新種が産み出され、ある者は際限ない巨大化へと突き進む日本と、特定の種類のゲームだけが恐ろしく先鋭的な進化を遂げるアメリカ、そしてかつて2極と言われたゲーム業界の第3勢力として勃興した、イギリスを中心としたヨーロッパ。

 先行きの暗さはあるものの、それでも存分に繁栄を謳歌しています。音楽ではアジアの外に出て行くにはテクノぐらいしかなく、映画なんてとんでもない。アニメもごく一部に限られた市場でしかなく、漫画も大した広がりは見せていません。
 でもゲームなら、アメリカでもヨーロッパでも余裕で互角以上に渡り合えます。クリエイティビティを武器に世界で勝負するには、ゲーム業界がもっとも妥当なわけです。現段階では。

 海外の音楽雑誌全てに日本の新譜情報が毎号10ページも掲載されてるなんて事態は有り得ませんが、ゲームならば毎号掲載されてる日本の新作ゲーム情報を見ながら、ファイナルファンタジー8の体験版、今度の付録に付かないかななんて考えたり、サクラ大戦がローカライゼーションされないかなとか思いながらアイリス(サクラ大戦に出てくるパツキンのロリっ娘)のフィギュアを買ったりするマイクロソフトの社員とかがいるわけです。

 でも斬新なゲームが登場するということは、市場が迷走しているという意味も含んでいます。アメリカのPC市場は確かに企画レベルでのチャレンジが少なくなってきていて、レベルデザイナーとグラフィックエンジン以外はもしかして全部おなじ企画書から立ちあげられてるんじゃねえかってぐらい似たり寄ったりのQuakeクローンマーケットが出来上がりました。もしくはリアルタイムSLG。

 これはユーザーの嗜好がはっきりと示されたがゆえの安定であり、SFC時代に日本で起こったRPG&シミュレーションRPG大爆発状態に近いものがあるのではないでしょうか。停滞という名の安定です。
 アメリカはネットワークゲームの勃興により隆盛を極めているように見えますが、基本となるアイデアはほぼ80年代に出尽くしたものであり、それらにネットワーク風味という味の素をかけた状態だといえるでしょう。

 日本とアメリカはどちらかが安定すればどちらかが迷走するという表裏一体の関係にあり、80年代後半のアメリカはその混迷ゆえに数多くの実験を繰り返したApple2からAmigaにかけての一連のゲーム市場が90年代の安定の礎を築き、日本は80年代後半のスーパーマリオ&ドラクエクローンの黄金時代の反動が、90年代後半のプレイステーションにおける超混沌を産み出したと考えます。

 90年代初頭日本において、市場はマシンパワーの制約などの枷のもと斬新なゲームを産み出したいという欲求が高まっていました。
 それがチュンソフトの中村光一氏やゲームスタジオの遠藤雅伸氏のような一線のスターゲームデザイナーの口から実感として語られたとき、当時新人であり現在はチーフレベルであろう多くの製作者を発奮させたことであろうと考えます。

 任天堂の宮本茂氏もSFC時代つまり90年代前半、日本にはマンションメーカーがないから斬新なゲームが生まれないと言い放ち、若い業界人を憤慨させました。なぜなら、80年代後半に日本のマンションメーカーを駆逐し大手の下請けとして再編させることになった最大の原因が任天堂のファミコンであったからです。
 宮本氏は素晴らしいゲームクリエイターですが、素晴らしいが故にいろんな制約を押し付けられた若い開発者のプロレタリアートな閉塞感が読めなかったのではないでしょうか。

  俺はすごいアイデアを持ってるのに一般論で日本のゲームデザイナーは云々なんて言うな! という若い開発者の怨念をです。

 その鬱屈の隙間にするりと入り込んだのがプレイステーションであったと考えるわけです。いろんな制約を失い、ついに待ち望んだ自由という名の混沌を見出した若い開発者たちは大手ゲーム会社をスピンアウトして、ワンルームマンションの一室で自分のためのゲームを創るために暴走していきました。

 その結果現われた時代のヒーローが、飯野賢治氏であり飯田和敏氏です。彼らのゲームはまず、面白さ以前にいかに自分の意志に忠実であるか、斬新であるかという点に全てが集約されています。
 一般論で日本のゲームデザイナーはなんて言ってた80年代のゲームデザイナーに対する反逆であったのではないでしょうか。

 逆にアメリカでは、Brizzardとid Softwareが、日本とは逆になにを造ったらいいのか分からずに困っていたアメリカにやっと、こんなゲームを造れば売れるよというスタンダードを築きました。方向を知らずに走ることに疲れたアメリカの市場にとって、それはやはり時代の要請だったのでしょう。
 90年代後半のゲーム業界を象徴するプレイステーションというのは実に巧みに時代の空気を突いたがゆえに、ここまで鮮やかに任天堂やセガという80年代後半を引きずるハードメーカーを出し抜いた大きな原動力になったのだと考えます。

 現在、アメリカでは斬新なゲームが出ずに日本ではたくさん出ています。しかしそれはどちらにとっても80年代後半から90年代前半にかけて続いたムードの巨大な反動であり、それは望まれて引き起こされたことであるということです。
 



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